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幸せな社会

幸せな社会 (改訂版:2019年11月25日)

幸せこそ正義だと考えてみましょう。

幸せは生命体としても社会関係においても一つの共通善だと考えられるからです。
わたしたちは、生き物として同じです。生き物なので、みな幸せを求めているはずです。幸せはそれぞれという面もありますが、社会の中で、みんな幸せであれば、皆良いと思うもの、あるいはベストではないでしょうか?

さて、「正義」の定義は「人々が取り扱われる上での公平さ,公正さ」であると思います。
ネットのとある辞書にはそう書いてありました。異論があるかと思いますが、議論をスッキリさせるために、その定義に基づいて書いています。

そこで、 幸せこそ正義とすると,

「人々は公正、公平に、幸せになるように(幸せであるように)取り扱われるべき」となると思います。

取り扱う、扱われる主体は、政府、自治体、学校、企業、宗教、民族、国家同士、個人などでしょう。ひとはそれぞれ基本的には自由に相手と関わりますが、自分も相手もしあわせになるように、あるいは相手をネガティブに差別はしないで、ポジティブな意味で平等に取り扱うということです。特に、政府や役所、役人といった公的機関、公務員、仕事をする上での会社員、お客様に対してはそうした公平、公正さが大切でしょう。個人レベルでは、みんな友達といった感じでしょうか。もっとも自分がいつもそうできるかとは別の話です。(わたしは対人関係が苦手です(笑))

さて、それぞれのレベルで、人々は、消極的には「殺さない、誰もひどく傷つかない、傷つけない」よう取り扱われるべきでしょう。

例えば死刑無し、残酷な刑罰無しなど。
宗教、思想なども人を傷つけない教えであるべきでしょうが、そうでないときは、政府は積極的に生命、安全、人権、幸せを保護し、向上させるべきでしょう。思想や宗教は、その中に含まれる「幸せ」を最重視したりすべきでしょう。例えば、より具体的には「目には目を」「悪は滅ぼすべき」という教えもありますが、「愛には愛を」「罪を憎んで人を憎まず」「最後の一人まで救う」「すべてを救うはたらきに委ねる」「敵を愛せ」「隣人愛」などを優先すべきでしょう。

積極的には「できるだけ幸せになる、幸せにする」よう取り扱われるべきだと思います。
日本のポップグループ「Exile」の歌詞の引用ですが、「幸せを願うことこそが愛」ではないでしょうか?


幸せや利害が対立するときは、調整、仲裁、代替、止揚、強制力による介入(争いを緩和するための)などで平和的に解決すべきでしょう。
例えば「これからの正義の話をしよう」という本に幸せや利害の対立する極端な一例がありました。
それは、ローマ市民が娯楽のためにキリスト教徒にライオンをけしかけるというものでした。そうした場合は別の娯楽を提供しては如何でしょう?この場合で言えば、一歩さがって冷静に「娯楽を求めている」と考え、例えば格闘技の試合など別の娯楽を提供すべきでしょう(選手がひどく傷つかないような程度で)

欲求、欲望、要求は、対象とするものが絶対ではないはず。欲しいもの、好きな相手、やりたいことは、絶対それでなければいけないわけではなく、柔軟に、別のもの、別の人、別のことを考えることもできるはずです。絶対に譲れない何かを求めることも時にはありかもしれませんが、それにこだわりすぎず、他のことで気を紛らわしたり、妥協とか、代わりとか、より良いものを求めるのも良いのかと言えると思います。ちょっとの我慢も必要かもしれませんが、逆にもっと良いこと、良いものが手に入るかもしれないのです。
 「ランドクルーザー」といった高級車がどうしても今欲しいとけれど手に入らないと悩んでいる人がいるとしたら、その実現に向けて頑張るのも良いと思うのですが、「今すぐ欲しいのか」「少しお金を貯められないか」「別のモデルや車種ではどうか」「なぜ車が欲しいのか、爽快感を求めているとしたら別のことで爽快感を求めてはどうか」「この欲求不満を紛らわす今できる別のことはないか」と考えてはいかがでしょうか。
また、ブルゾンちえみさんの言葉によれば、彼氏を求める女性に対して、地球上の男性の数は「35億人」なのです!誰か特定の一人にこだわりすぎず、エイリアンでも可でしたら、どれだけの出会いが期待できるのでしょうか? あるいは「彼氏」「彼女」にこだわりすぎずに、別のことで気を紛らわすのも手かもしれません。

わたしがそうできているかと思いませんが、最高を求める気持ちと、妥協する気持ちの両立が良いのかもしれません。

幸せや欲求が対立して、どうしても個人や双方が譲らず、対立が激化しそうなときは、強制力が必要な場合があるでしょう。もっとも、それは基本的に、何かの案を押しつける強制力ではなく、個人や対立する双方がひどく傷ついたり傷つけ合うことを防ぐような強制力です。
いじめっこに対して正義の力がにらみを効かせるといった強制力もあるでしょう。

ただし、もっともこれらは原則で例外もあると思います。原則は万能ではないのです。

さて、幸せについてですが その状態について考えました。

幸せであるためには、生物学的、医学的、社会的にそうした状態であることと、本人がそう感じていることの両方が必要です。

生物学的、医学的、社会的に、欲求が満たされる、あるいは幸福に関する脳内物質の分泌により幸福感のある状態。
痛み、苦しみ、喜び、快感、空腹、満腹、病気、健康、幸せに関わる脳内物質などはほぼ生物に共通することだと思います。その他、幸せは人それぞれというのも、逆に人に共通していることだと言えます。そうした幸せをもたらすのは、治安や豊かな物資、文明、家族、地域、国、国際関係など、社会条件でもあるのです。
安全で安心して暮らしていけるから、幸せであることができるとおもいます。
当人が幸せであると実感している状態
健康であったり、どんなにお金持ちであったり、友達が多くても、幸せをあまり感じない人もいるでしょう。逆に、病気であったり、貧しかったりしても、幸せだと感じている人もいると思います。そういう人たちは、病気が癒され、豊かになることも幸せの要素だと思いますが、このように、しあわせには、「当人が幸せと感じている」ことも必要だと思います。

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