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全宇宙は無限にして永遠、時を超えている(最終更新日:2023年6月8日)


 イントロダクション

この論文では「全宇宙」(すべて)は無限にして永遠、時を越えている」を論証しようと思う。それは、わたしたちがそれぞれの立場に執着せず、「全宇宙を幸せにしよう」という願いの基礎となる世界観(真実)だと思うから。全体(whole)という単語は神聖さ(Holiness)を含蓄する。私は全宇宙のありように神秘性を感じている。

アブストラクト

この論文において、「全宇宙(すべて)は無限にして永遠、時を越えている」という真実を提示する。

(これまで「ビックバンが宇宙の始まりであり、従って宇宙は広がりと時において、ある程度限度がある」と広く信じられてきたようだが、それでも私は真実を提示する。)

ビックバンは全宇宙のうちの一部で起きたのだろう。
この真実を証明するために、私は論理とデカルトの言葉「我思う、故に我あり」を用いた。
主な結論は次の通り。
「すべて」は「全宇宙」と「自我とそれ以外」に等しい。
「すべて」は「絶対無」にならず、完全に消滅しないので、ありつづける。
「すべて」には始まりも終わりもなく、したがって時を越えている。永遠である。
私が提示した真実は、私たちが平和を考えるとき、「「幸せ」を広めるべきだ」と示唆するものでもあるかもしれない。なぜなら、私たちは同じ生命体であるから「幸せ」は普遍的であり、
したがってそれぞれの信仰や思想などに執着し過ぎるべきではないからだ。しかし、それらの多くは、たくさんの宝物を含むので、尊重されるべきだ。宝物のうち「敵を愛せ」「互いに愛し愛し合いなさい」などのイエスの言葉が特記される。(イエスはキリスト教徒、ユダヤ教徒、イスラム教徒にとって、「共通の聖なる存在」である)。

私たちは、普段の生活のなかで「ともに生きることを喜びとする社会」を築くべきである。全体(whole)という単語は神聖さ(Holiness)を含蓄する。私は全宇宙のありように神秘性を感じている。

セクション1

「すべて」とは、(無限の)「全宇宙」あるいは「自我とそれ以外」を意味する。それは無限で、実際に存在し、ありつづける。なぜなら、第一に、宇宙には必ずその先が存在するから、「すべて」は無限である⑴。第二に、「すべて」(自我とそれ以外)の実在性は、デカルトの言葉「我思う、故に我あり」から証明できるので、「すべて」は実在するのである⑵⑶。第三に、「すべて」は全体としては消滅しないからありつづける。なぜなら「絶対無」はあり得ず、もし世界がいわゆる「無」になっても、それは存在していると見なすからである。(いわゆる「無」は存在の一つとする)⑷。このように、「すべて」は無限にして、実際に存在し、ありつづける。

⑴ 例えば宇宙船を飛ばしていっても、その先が必ず存在するはずである。仮に「無」に囲まれていたとしたら、その「無」も「その先」(the beyond)と考える
⑵ 存在していなければ思うことはできない。すなわち存在していることとその領域の証明、同時にその領域以外の存在の証明でもある。
⑶ ある領域を想定すると、同時にそれ以外も想定している。(数学の「集合」を参照してほしい)。では、その領域が実在すると、同時にその領域以外も実在する。
⑷ 前提:①正しく名づけられるものは「存在する」とする。この「無と名づける」あたりが今の私の言葉の限界だろう②「絶対無」は言葉の誤りで、あり得ない。

セクション2

「すべて」(全宇宙)は、始まりも終わりもないこと、時間を越えていることから、永遠である。またこの事実は、時間や宇宙には始まりと終わりがあり永遠を否定する有限論とは一見反対である。有限論では、始まりとはすなわち「それ以前にはない」ことを表し、終わりとは「それ以後はない」ことを表す。しかし「すべて」はありつづけるのだから、始まりも終わりもなく、永遠である(5)。第二に、ありつづけるということは、時を越えているということである。なぜなら、時間とは、時(moment)と時(moment)の差か、そのままのひと続きであるが(6)、それはいかなる時においても絶え間なく継続して存在していることを意味するからである。したがって「すべて」は永遠である。

(5)経験上、わたしたちは、ほとんどのことに、始まりと終わりがあることを認識しているだろう。仮にほとんどであったとしても、それは絶対ではない。「すべて」が存在することに始まりと終わりがないこともまた真実なのだ。
(6)私は時間とは時(moment)と時(moment)の差か、そのままのひと続きであると考えている。その連続性は絶対視しない。日々の経験から、私たちは時間には流れがあると感じているが、絶対そうだとは限らない。なぜなら、時間がコンピュータープログラムのようなものならば、時間を越えられるかもしれないからだ。

セクション3

結論。このように「すべて」は無限にして永遠、時を越えている。それゆえ、一部にこだわりすぎるべきではなく、全宇宙で最高の価値となりうる、「幸せ」を広めていくべきである。一部とは民族、宗教、思想、国家といったものだが、それらのうち多くは宝物のようなものをたくさん含む大事に尊重されるべきものだろう。例としては「敵を愛せ」「互いに愛し合いなさい」といったイエスの言葉が挙げられる。(イエスはキリスト教徒、ユダヤ教徒、イスラム教徒にとって「共通の聖なる存在」である。私たちは皆同じ生命体であるから、幸せの価値は普遍的である。私たちは普段の生活のなかで「ともに生きることを喜びとする社会」を築くべきである。全体(whole)という単語は神聖さ(Holiness)を含蓄する。私は全宇宙のありように神秘性を感じている。


補論1: 「すべて」とビックバン

現在の宇宙論では、ビックバン(の特異点、特異領域)が宇宙の始まりであるという。
この宇宙論は「「全て」に始まりも終わりもない」ことと、一見、矛盾している。
しかし次の考え方では矛盾しない。
それは、
ビックバンは「全て」whole universe の一部の始まりである。
という考え方である。
現在から過去に遡ればビックバンの特異領域は時間と空間の生まれるところ、なのだそうだが、それは「永遠に存在している全体」のうちの、ほんの一部の始まりに過ぎないと考えるのである。
なぜなら、特異点、特異領域という考えは、その周辺に「無」を想定しているはずであるが、
私の述べている「全て」は「無」も含めた存在であるからである。
無限にして永遠である「全て」は始まりもなく終わりもない。そのうちの一部分でビックバンが起き、一部の時間と空間が始まったと考えるのである。

Something Greatと宇宙のプログラム

Something Greatが宇宙をプログラムしたのかもしれない。だとするとそのプログラム(創造)は不完全かもしれない。しかし、こうポジティブに考えてはどうだろう?
プログラムは全宇宙レベルではほぼ完全で私たちが日常経験する悲劇はほんの一部の修正可能なエラーであると。
また、コンピュータープログラム上では私たちは時間を越えられる。時間を止めることもできる。過去に遡れる。未来に進むことができる。時の複製もできる。削除もできる。進めることもできる。遅くすることもできる。
では、Something Greatが宇宙をプログラムしたと考えたらどうだろうか?
その場合、宇宙において時間を越えられる可能性はある、と考えられるのである。

補足: ひょっとして、何もないところから空間が生まれるという感じは、空間のあるコンピューターゲームのプログラムを走らせた時のような感じかもしれない。